読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サカモトシゲノリのプロフィール

f:id:sakasige1114:20170216181605p:plain
  • 2017/02/18 投稿。追記予定。
  • 2017/02/20 追記。

 

はじめまして。広島県北に住んでいるサカモトシゲノリです。

16歳の時にパニック障害と診断され、10年経った今でも完治に至ってはおりません。

 

ここではそんな私の経歴を語りたいと思います。

 

 

問題児、進学校へ

小中学校での私は運動音痴だったことや校則をはじめとしたルールにうるさかっため、よくからかいの対象になりました。

そしてわざわざ怒り時には拳に訴えることも少なくない、なんとも面倒な生徒でした。

 ルールにこだわってそれを乱していては世話はなし。

 

当時の自分にもそれを恥じる気持ちはあり、顔見知りがいないところで再出発したかったこと。

勉強はそこそこ出来たので、そこを伸ばしたかったこと。

この逃避と挑戦が入り交じった理由から、県内の進学校を志望しそこへ入学しました。

 

パニック障害、発症

中学ではバスケットボール部に所属していた私。

高校に入学してからは精神と肉体、両方を鍛えることを志して柔道部に所属。

元来の運動ベタもあり結果は残せないものの、熱心に取り組んでおりました。

 

実家から毎朝1時間半かけての通学。高校に入り一気に難しくなった授業。

それに加えて部活動を行って、徐々に徐々に疲れていく心身。

 

『周りの中にはもっとキツく、もっと頑張っている人もいる』

 

劣等感を感じつつ、そう思って自分を叱咤していたある冬の教室でのこと。

私の体はシャープペンシルを握ったまま動かなくなってしまいました。

 

10年の迷走の始まり

それまで気怠く体が重いと感じることはあっても、全く動けなくなることは初めてで大変戸惑ったことをよく覚えています。

 

それは両親を含めた周りも一緒で、登校を渋る私は父から「そうするなら私は仕事を辞めて、家も売って田舎に帰る」と言われたことも。

 

過呼吸を起こし、心身のコントロールが効かないためか尿まで漏らす始末。

当時のことをこうして書いているだけで胃が締め付けられ、ごちゃまぜの感情を抑えきれずに涙がこぼれます。

 

2年生に進学は出来たものの、症状は1~2ヶ月休んだだけでは収まらずに、早退を繰り返すことになりました。

これは尋常なことではないとハッキリと認識した頃、両親から心療内科の受診を勧められます。

 

治療開始、三歩進んで二歩下がる

両親の勧めに対し、私は悩まず快諾しました。

そのまま何もせず苦しむことに耐えられず、少しでも改善の可能性があるならやってみたいと考えたからです。

 

初期のカウンセリングでは、昔から募っていた両親への想いを吐露。

両親にも参加してもらい、互いに行き違っていた言葉を存分に交わしました。

 

投薬治療に対しても特に不調はなく、受診通院前に比べて症状は格段に改善されていきました。

 

しかし焦りすぎるのが私の悪い癖で、少し良くなっては何もしないことに耐えられずに行動。そして再度悪化させる。

こうして書いていると、この10年間はまさにその繰り返しだったように思います。

 

夢か逃避か、美術の道

私は中学生の頃から、ネットで公開されている多くの美麗なイラストに興味を持ち始めました。

そんなイラストへの憧れは、高校生活に行き詰まった私の逃避先になります。

 

形だけ高校2年になった年の秋。父が面識のある画家の先生を紹介してくれて、簡単な指導を受けることになりました。

ご年配で穏やかかつ独特の雰囲気と画風を持った先生で、大変親切にしていただきました。

先生も高齢ゆえの不調を抱えており今は疎遠となってしまっていますが、この経験が次の目標を私に与えます。

 

『高校卒業程度認定試験(旧:大検)に合格し、美大に入学する』

 

今思えば高校に通えない身で大学に入ってどうするのか、と思いますが

「普通課程の勉学は無理でも、好きな美術ならいけるだろう」という美術への侮りと、5教科をはじめとした学科から逃げたいという気持ちがあったのでしょう。

 

初めてのアルバイト

父は非常に勤勉な社交家で、先述の先生以外にも多くの人と知り合いでした。

その中には書店や文房具店の経営者もいて、書店で短期アルバイトをしないかと紹介を受けます。

当時の心境はあまり覚えていませんが書店のオーナーにも親切にしていただき、なんとか全うすることが出来ました。

なんだか父の誘いに乗ってばかりですが、元からそういう性質だったのと父の期待を裏切った自責の念がそうさせたのだと思います。

 

書店の次は文房具店でお世話になりました。書店では検品や輸送補助等がメインでしたが、文房具店では接客がメイン。

始めたての頃は特に失敗もパニックも多く、多くの迷惑をかけましたがそれでもオーナー夫妻は丁寧に指導し「あのお客さんが褒めていた」と伝えて励ましてくださいました。

 

今の私が真っ当に生きていく力に欠けたままでも犯罪等の反社会的行動に及ばず、まだ力をつけようと足掻けるのは、両親と2人が繋いでくれた縁があってのことと日々感じています。

 

予備校時代、二度目の挫折

先述の新しい目標の第一段階「高校卒業程度認定試験に合格」することはさほど難しくはありませんでした。というのも1年生の際に取得した単位で大体の科目は免除されたからです。

合格後、高校は退学しました。これは偏見ですが、退学者はあまり学校や教諭にいい思い出がない方が多いと思います。

幸いなことに私の場合は試験に必要な書類や諸々をいち早く揃えてくださったことを始め、退学後の進路相談にも親身になってくださったことから、学校及び教諭には感謝の気持ちしかありません。

閑話休題

 

高校と同じく県内の美術予備校に入校した私は、公立大学のデザイン科に入学することを目指し初めて本格的に美術を習い始めました。

中学高校の時から美術に親しんでいる予備校生も多いため学べることは多く、そのまま何事もなければ志望校も十分行けるという矢先……真夏から再び病状が悪化。

両手両足が肉離れでも起こしたのかのように鈍く不自由に。登校するのがやっとで、苦しさと自己嫌悪で頭が一杯になり、学科も含めた折角の機会を逃してしまいます。

  f:id:sakasige1114:20170219222922j:plain f:id:sakasige1114:20170219223426j:plain                (在校中の作品の一部)

ただでさえ美大受験は甘くはありません。センター試験は受けたもののそこでも発作を起こし、私は勝負の舞台に立つことすら出来ませんでした。

「美術ならばストレス無く出来るかもしれない」そんな楽観極まる妄想はあっけなく砕け、集団への予期不安を増長する結末を迎えます。

 

環境を変えるため、一人暮らしへ

予備校を止めた私は無理を言って再び文房具店でお世話になりながら、どうすれば稼ぎ生きていけるだろうかと毎日考え込みました。

自分が好きで得意?な分野で上手く行かなかったことは、私の自己肯定感をますます低くしていたのです。

 

少しでも自分の力で何かを成し遂げたい。その一心で思いついたのが広島市内での一人暮らしでした。

退校以来症状は再び改善していたので、家事を1人で行うことや親元を離れることへの抵抗はなく、ただ暮らすだけならば問題はありません。

ですが、当然ながら生きるにはお金が不可欠。隠しても仕方がないとパニック障害の治療中であることは明かして求職を行いました。

 

私は私という契約を守って働く商品を売り込む営業マン。ですが、この商品は故障しやすい不良品。

私は自信を持って売り込むことが出来ず、求職は難航。

ある採用担当からは侮りを隠さず慇懃無礼にお祈り。やっと採用されたら1週間で肺炎になるというポンコツぶりを見せる。

 

一人暮らしは就職が決まって会社に楽に勤めるために行うことが多いかと思いますが、私の場合はそれを通してパニック障害を克服するのが目的。

しかし雇う側からすればそれを応援する義理などありません。ブラックでなくとも多くの企業は精一杯なのです。

 

運良く清掃の仕事を長く勤めることが出来ましたが、別の仕事を増やすとどちらも立ち行かなくなることが多々あり、収入は低いものでした。

 

父との死別

私は両親が30歳を超えた頃に生まれた子供で、父とは38も離れています。

そんな父は私が一人暮らしを始める少し前から癌であることが発覚し、手術で取り除くことが難しい特殊な症状のため抗癌剤での治療を始めます。

 

「シゲノリが困っているのに助けてやれず、こっちを心配させて悪い」

 

そう漏らした言葉が忘れられません。抗癌剤の副作用はあるものの、とりあえずは自分自身の手足で精力的に行動していました。

 

そんな中、昨年(平成28年)11月のことです。母から電話あり。

 

「父さんがもうもたないかもしれん。帰ってきて欲しい」

 

急いで帰った私が見たのは見たこともないほど苦しそうで、多くのチューブに繋がれた父の姿でした。

こちらのことは分かっても話すことはままならず、父の瞳は熱に浮かされ……あるいは己を恥じてか潤んでいました。

 

その後、1月も経たない内に父は亡くなりました。最後まで親不孝な息子だったことを何度詫び、悔いても足りません。

 

帰郷、そしてこれから

父の死が意識せずとも心身に負担を与えたのでしょうか。

長く続いた仕事もこなせなくなり、昨年いっぱいで私は実家に戻りました。

 

 

以上が私の主な経歴です。冗長な部分もありましたが、読んでいただき感謝の言葉もございません。

 

まだこれからどう稼ぎ、どう生きていくか。

全く見通しは立っていませんが、シゲノリの足掻きをどうぞ見て読んで、応援してもらえれば幸いです。